ふる里の名所ご案内

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厄神社(やくじんじゃ)由緒

 当神社は、神速須佐之男命を奉斎し、56代清和天皇の貞観9年(867平安前期)8月備後の国鞆之津祇園宮から小林庄都羅之郷、宮之壇(現宮之浦)に勧請「薬神宮」と称した。
 その後土地開発により住民が連島山脈の南面に移住すると、第99代後亀山天皇の天授3年(1378南北朝)春日北朝の永和3年春日字小船(現西之浦)の地に奉遷し、「疫神宮」と改称した。
 第101代称光天皇の応永23年(1416室町中期)11月13日字小川(西之浦)の地に遷し奉り、又第104代後柏原天皇の大永8年(1529室町後期)5月吉日古宮(現西浦小学校東端)に遷宮した。再び第107代後陽成天皇の慶長12年(1607幕末)の秋、願主物部氏、船氏、生和氏等協力して御本殿を建立した
 第111代東山天皇の宝永6年(1709江戸中期)9月7日現地当山の石山に奉遷し、「厄神宮」と称した
 明治7年神仏分離により「厄神社」と改称する。当山遷座後、大正10年奉遷200年祭、昭和46年5月奉遷250年祭を執行現在に至る。
 往古よりあらゆる災難防護、病気平癒、産業繁栄、文芸、学問の神として知られており、その御神徳を仰ぎつつ、更に現在では厄除祈願、安全祈願等が盛んに行われている。また多くの会社企業等から業務の安全、繁栄を祈り広く崇敬されている
 

   

箆取神社(へらとりじんじゃ)由緒

 当社の創建年代は不詳であるが、伝説によれば往古連島は都羅之郷と称し一孤島であり、第40代天武天皇の御代にあった壬申の乱の頃、鎮座地前面の海上に箆の御神紋が顕れた事に因り、箆取大権現と称した。
 また、江戸時代の宝暦年間においては、当地七浦の総鎮守として信仰の中心となり、霊験著しく神恩に浴する者遠近に及び殊に成羽藩主山崎主*之助並に地方権勢家の崇敬厚く、75社の御眷族(神使)を俗謡にまで唱へられ、尊信する人は遠近に及び霊徳顕著となった。
 神社は隆昌を極め、境内は広大で社殿もまた稀有な宮造りと県下一の廻廊を左右に巡らし、境内境外には桜、楓、ツツジが数百本植裁されている。四季の眺めは変化があり、又絵馬殿からの眺めは水島灘の風光並びに水島工業地帯の展望台として信仰と観光を兼ねた県下稀に見る神社である。(注)文中の*は、「衣」偏に「ソ」をしてその下に「兄」である。